ビデオのコラム
2002.09.04 シネマスコープとワイド画面 <ビデオのワイド画面:画は小さくなるけれど、デッカイ臨場感> |
その1.映画のシネスコとワイドスクリーンについて アメリカ映画界がテレビ攻勢を恐れての対策として、主に3ッつのことが始まりました。ひとつはアメリカのナチュラルビジョン社開発のポラロイド(偏光)メガネをかける「3D立体映画」。そしてワイド画面の「シネマスコープ」。そして3台の映写機でさらにワイド画面にした「シネラマ」です。 「3D立体映画」は、縁日の見世物興行的面白さで一時大はやりしましたが、内容の良い映画作品が続かず、劇場側も経費高となるためしぜんに下火になりました。(店長はとっても好きなのですが) 次に「シネマスコープ」ですが、シネマスコープの映画作品第1作目は1953年に二十世紀フォックス「聖衣」(#7990)が作られました。日本でも1953年(昭和28年)12月26日から東京の有楽座と大阪の南街劇場(30日から)でわが国最初のシネマスコープ興行が開始されました。 「シネマスコープ」に先駆けて「シネラマ」が開発されましたが、シネラマは3台のカメラで撮影し、3台の映写機でスクリーンに映し出す特殊な方式で、日本には「シネマスコープ」が先に輸入されました。 輸入したのは、東宝の小林一三(※)という人で、1952年10月15日に秦秀吉、吉岡定美その他数人で羽田を出発。アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、イタリアを回って同年12月25日に帰国するという旅行に出かけました。(ゼイタクデスネェ) そのとき、ニューヨークでは、9月30日より始まったばかりの「シネラマ」が大評判でした。なにしろ2ドル80セントという当時としてはバカ高なチケットが毎日売り切れでヤミ値が4ドルもしてるという評判でした。 一行もパラマウント社から手を回して入場券を入手。早速会場のブロードウェイ劇場に行ったという。見てビックリ、圧倒された小林一三は是非自分の手で「シネラマ」を、日本で興行したい、と思ったそうです。 ところが、日本での興行を研究しているうちに、アメリカの20世紀FOX社が「シネマスコープ」という名で、フランスのソルボンヌ大学教授アンリ・クレチアン博士の考案した特殊レンズによる拡大映写とステレオ音響を組み合わせた装置を売り出し、その第1回作品「聖衣」を封切しました。これは「シネラマ」初公開後約1年の1953年9月17日のこと、場所はニューヨークのロキシー劇場でありました。 「シネマスコープ」は「シネラマ」と違いワイドレンズを使って一台の映写機で映写できるので様々な利点がありました。 「シネラマ」は3台のカメラで撮影し、3台の映写機で映写するためワイドな効果は絶大ですが、撮影技術は特殊で、また撮影・映写の設備にかかる経費も絶大でしょう。そして最初は効果的な映像を見せるためグランド・キャニオンなどの広大な風景やジェット・コースターのオンボード映像などが主体でした。 比べて「シネマスコープ」は一本のフィルムで、1台の映写機で映写できる、従来とあまり変わらぬ方法で、ワイド画面とステレオ音響というシネラマ的に臨場感を盛り上げることが出来るのが特徴でした。 「シネマスコープ」最初の映画「聖衣」は聖書に出てくるストーリーの劇映画で群集場面などワイド画面とステレオ音響の生かされたシーンの多い映画でした。 ロキシー劇場の興行は空前の大ヒットとなり、第1週で26万4千ドルの入場料を稼いだのでした。 これを見て、他の映画会社、メトロ、ワーナー、パラマウント、コロムビア、ユニヴァーサル等が、シネマスコープ映画の製作に着手し、アメリカ映画界はたちまちシネマスコープの全盛期をむかえました。 東宝は昭和28年(1953)暮れに開場する大阪南街劇場と、東京の有楽座をシネマスコープで興行する計画をたて、上映施設の輸入許可を通産省に申請。機材および設備はアメリカで先鞭をつけた二十世紀FOX社のものを使い、映画も「聖衣」を第1回に上映するので、12月10日二十世紀FOXインターナショナル社のシルバー・ストーン社長がその準備のため来日し、配給料金60パーセント、最低目標9週間興行を条件に契約を結びました。 このとき輸入された機材は、在外ドル予算の関係で(?)非緊急物質として、その輸入に一時難色があったが、国産品製作のためのサンプルという意味で二組に限り許可されたものであったという。(今ではナンノコトヤラですが) 有楽座のスクリーンは縦9メートル、横20メートルという最大級のものであった。 「聖衣」の封切に先立って、12月15日朝、有楽座で二十世紀FOX社主催のデモンストレーションがあり、高松宮、三笠宮をはじめ、各国大公使、知名人1600人の前で、最初の映写が行われた。「スクリーン・カーテンが上がり、舞台一ぱいにひろがったスクリーンに、まず極彩色のエリザベス女王戴冠式の行列が、実景そのままを思わせる大きさで映写された時は、観客は一斉に驚きの目を見張り、場内がどよめいた。」と資料にあります。 「聖衣」の興行はいずれも予定の9週間上映を上回り、有楽座が75日で35万人、南街劇場が71日で26万7千人の観客を動員し、戦後最高の記録を樹立したのだそうです。 以後、国産機械の生産出回りとともに日本各地に広まり、翌昭和29年(1954)8月末までに全国で24のシネスコ館が誕生し、以後もどんどん増えて行くのでした。 そして、この時前年度から流行し始めた「ワイド・スクリーン」は影を失い急速に消えて行くのでした。 ここで、未だに誤解の多い「ワイド・スクリーン」についておさらいしておきましょう。 映画史でいう「ワイド・スクリーン」と言う名称は“シネスコ・サイズ”や“ビスタ・サイズ”とかの今でいう縦横比の呼び方ではなく、昭和28年当時、映画はスタンダードサイズなのに映写するスクリーンだけ横に広げちゃったことがあったのです。 東京の江東楽天地にある江東劇場は、昭和28年6月3日から上映の立体映画「恐怖の街」と東宝映画「次郎長と石松」をワイドスクリーンで上映して話題になりました。 通常のスクリーンは縦4メートル、横5メートルというのが標準的な大きさでしたが、江東劇場のワイドスクリーンは縦はそのまま、横だけ10メートルに拡大したものでした。したがって、このスクリーンに映写されると画面の天地が切れ、洋画の場合は日本語の字幕が通常右端に縦に焼きこまれていますが上下が切れて全部読めないという欠点があり、作品的にも、演出者の意図に反すると非難されましたが、一般の観客には大きな画面の魅力は圧倒的で大評判を取りました。 この「ワイドスクリーン」は経費の安さからか次第に普及し、一流映画館はこぞってワイドスクリーンを取り付けたため、江東劇場の公開以来わずか4ヵ月後の9月末には全国で100館以上になったというのですが...。 年配の方などにビデオの“ワイド”や“ワイドテレビ”に誤解が多く、上下を切っちゃってあると思っている方がまだいるのです。 年配の方ならまだしょうがないと思うのですが、若い人でも判っていない人がいるのはどうなんでしょうか。 さらにDVDに多くなってきた「スクィーズ」なるものはなんだ。というお話は、次に続く。 ※ 小林一三[こばやしいちぞう](1873〜1957) : 阪急グループ創業者 山梨県出身。慶應義塾大学卒後、三井銀行に入り、その後箕面有馬電軌(のち京阪神急行電鉄)の設立に参加。私鉄経営に新生面を拓きユニークなパンフレット広告や月賦販売を行い乗客を増やすため宝塚歌劇団、阪急百貨店、宝塚温泉、動物園を創設。大正7年社長就任。また、東京電灯会社、東宝社長を歴任。第二次近衛内閣で、商工相。 |
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