1977年 F−1立読み情報 

2000年F-1日本GPと
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2002年F-1GP 雑感

1977年、富士スピードウェイでマルボロのタバコと一緒に貰ったパンフ

第15戦カナダGP終了時のポイント
ニキ・ラウダ 72
マリオ・アンドレッテイ 47
ジョディー・シェクター 55
カルロス・ロイテマン 36
ジェームス・ハント 31
エマーソン・フィッティバルディー 8

と、ヘルメットの上に記載されてます

F−1は予選が一番楽しかった
土曜の予選はメインスタンドがフリーでした。正面のパドックでは午前中のフリー走行の時から、マシンを調整してコースへ出ると、数周してピットインしてまた調整。それぞれのチームが忙しく働く様子がわかります。予選が始まれば各コーナーまで歩いてそれぞれの全力疾走の様子を見ることも出来ました。
メインスタンドで予選を見ていると、きれいな外人のおねいさんがマルボロのタバコをくれました。6本入り(だったと思う)の小さな箱で、もったいなくてとうとう吸えずにダメにしてしまいました。

※F−1ニュースとマクラーレン・チームの動きを知らせてくれるメールマガジンは
マクラーレン・チームのH.P.から http://member.nifty.ne.jp/mclaren/

三菱石油のパンフということで、マルボロ・マクラーレンを例にマシン解説(パンフのおもな解説はカメラマンの間瀬明氏が書いています)。
F−1エンジン(3,000CC):FORDコスワースDFV V型8気筒475馬力/10800回転。ガソリンタンク:200Le入りラバ・フォーム隔壁型 三菱ダイヤモンドエキストラ・ガソリン使用、消化液で燃料タンクを包んでいる。ボデイ:モノコックバスタブ型総アルミ製、最低重量575Kg、最大車体巾215cm。
因みに、DFVエンジンはマクラレンの他、JPSロータス、タイレル、マーチ、チーム・ジョン・サーティースなどが使用。フェラーリ・チームはフェラーリ312B型 フラット12気筒500馬力/12200回転。ブラバム・チームはアルファロメオ フラット12気筒495馬力/11500回転。リジェ・チームはマトラ V型12気筒500馬力/11600回転。ルノー・チームはルノー V型6気筒ターボチャージャー付510馬力/11000回転。でした。

この頃のマシンは後輪が太く大きく、前輪が細く小さく、カートにとっても似て(コーナーでの姿勢も)いたのですが、なかでもちょっと違うのはロータスとタイレルの6輪車でした。ロータスはカッコ良かった。1977年はニキ・ラウダがすでにチャンプを決めていて来日しなかったので、ポールを取ったマリオ・アンドレッティ(ロータス)との対決が見られず残念でした。選手達は皆、レーサーでも別格という風格があってカッコ良かったのですが、私が見て1番カッコ良かったのは選手ではなくコーリン・チャップマンでした。76年もそうでしたが、ロータスはメカたちも黒でキメていてカッコイイ・チームなのですが、チャップマン氏は黒のスラックスに白いワイシャツ、腕まくり、口ひげにハンチング帽というカッコの姿をまじかで見たときから、私は選手でなくこの人のファンになってしまいました。
この頃のメカ達はツナギではなく黒のズボンとトレーナーというのが多かったのです。因みにフェラーリ・チームは黒ズボンと黄色いトレーナー。マクラーレンは黒ズボンと白トレーナーに赤いマルボロのワッペンでした。
この1977年の様子は、TBSビデオ「F−1日本グランプリ 1977」(販売:ポニー・キャニオン)で当時の実況放送そのままを見ることが出来ます。実況は懐かしい石井智アナウンサー、間瀬明氏の解説(’87からフジTVでF−1の放送を始めるまでは、TBSが石井智アナの司会、間瀬明氏の解説でダイジェスト版の放送をしておりました。)、おなじみの森脇基恭さんもリポーターとして参加されています。

 超合金人間・高橋国光選手(右)
可哀想に高橋国光選手(タイレル007で参戦)は、この1977年に”ベテラン”と書かれています。高原敬武選手(コジマ009)は”クール派”としてあるのにネ。


高橋国光選手は1961年のホッケンハイム・リンクにおいて日本人として初めて2輪ワールドGPで優勝した人で、この77年日本GPのときレース暦20周年37歳ですから”ベテラン”といわれてもしょうがないのでしょうが、この後現役で1999年まで走りつづけて、ラストランをJGTC(GTオールスター戦)で(飯田章選手とのコンビネーション)2位表彰台で飾っています。
この1977年日本GPでは6輪になる前の古い型のタイレル007で9位完走(日本人最高位)を果たしています。
私は高橋国光選手がバイクで浅間火山レース(ホンダのエグイ4気筒マシンに乗っていた)の頃からのファンなので長い長い間、高橋選手を見てきましたが、TVやビデオで見るといつでも笑顔をみせて、優しい話方をする方で、スゴイ人間なのだと思います。
1961年高橋選手にとって最初のレース、西ドイツ・ホッケンハイム250ccクラス日本人初のグランプリ優勝を果たした。高橋選手が世界グランプリに参戦し始めて、わずか4戦目の勝利でした。
しかも同年、北アイルランド・アルスターGPの125ccクラスでも優勝を果たした。

このことだけでも十分すごいのに
1962年シーズン、グランプリ参戦3年目の高橋選手は、開幕戦のアメリカ、続くスペイン、そしてフランス3連勝の快進撃!。フランスのクレルモンフェラン・サーキットでは、決勝レースがウエットコンディションであるにもかかわらず、前日のドライコンディションの予選タイムを上回るスピードで走行。ジム・レッドマンやルイジ・タベリといった世界のトップライダー達を10秒以上も引き離すという独走優勝を演じたのでした!!。

そして、その次のレース。マン島TTレース。高橋選手は大クラッシュを起こし10日間意識不明……。日本には高橋死亡のニュースが報道されました。
その後、バイク雑誌で見た高橋選手は(私のうろおぼえですが)リハビリのため多摩テックの所長をされてるとかで、背広姿のビジネスマンでした。(もうレースなんか出来ないよなぁ、と思っていたら)
次に見たのは、富士スピードウェイでのスカイライン2000GTに乗って激しく走る4輪レーサー高橋国光でした。
こうういう人は「鉄人」などとなまやさしい呼び方でなく「超合金人間」とでも言うのでしょうか。

ところで、高橋国光選手は日本の国から何らかの表彰を受けたのでしょうか。
不思議に思うことがあります。私はF−1GPと2輪WGPの大ファンで、よくというかほとんど欠かさずTV観戦をしています。F−1ではまだですが、2輪のWGPにおいてはここ数年日本人が大活躍をしていて特に125ccや250ccクラスでは毎回のように日本人選手が優勝する姿を見ることが出来ます。そして表彰台の真中に立ち、世界選手権ですから国旗が掲揚され、国歌が流れるのです。
いつも、若者はなにかにつけてとやかく言われますが、彼らは日本を離れて世界を転戦してほとんど命をかけて戦い、優勝し、国旗を揚げ国歌を流し、TVのインタビューに英語で答えています。なんと素晴らしいことだろう。
もちろん、彼らは国の為に走っているなどとは思っていないのでしょうが、世界選手権とはそういうことなのです。

日本は2輪車では主な生産国といえるでしようし、4輪車も輸出によって大きな利益をあげています。F−1や2輪の世界選手権で活躍した選手を表彰するのはもちろん、日本で開催されるときは大臣クラスがイベントに参加してもちっともおかしくないと思うのですが如何。

モーター・スポーツの世界では、坂田和人や原田、上田、岡田、阿部選手など外国では著名人だが日本では・・・、という人がたくさん。日本でもよく知られているのは阿部選手ぐらいか。さすがにF−1ではナカジマも亜久里も片山右京もそれぞれ各方面でご活躍の姿を見かけますが、平忠彦さんや片山敬済さんはモーター・スポーツ・ファンでない日本人の認知度はどんなものなのでしょうか。


なんてことを書いていたら、2002年3月こんな記事がホンダのページに有りましたので引用します。

加藤大治郎選手が、文部科学省より、ロードレース プロライダー初となるスポーツ功労者顕彰を受けました。

(2002年3月15日)

 2001年ロードレース世界選手権シリーズ250ccクラスでチャンピオンを獲得した、(株)ホンダ・レーシング(HRC)契約ライダーの加藤大治郎選手が、文部科学省より、スポーツ功労者として顕彰され、3月14日(木)に文部科学省大臣室にて顕彰式が行われた。ロードレースのプロライダーが顕彰されるのは今回が初。

 この顕彰は、日本におけるスポーツの振興に関し特に功績顕著な者を「スポーツ功労者」として顕彰するもので、全16戦中11勝の新記録で世界チャンピオンを獲得した功績が認められたもの。


遠山敦子 文部科学大臣のコメント
「16戦中11勝というすばらしい戦績で、国民に希望を与えてくれました。人が拓いた道ではなく、自分の力で道を切り開き、前人未踏の記録を達成されたことは、本当にすばらしいことです。
過酷なレースなので、体を大事にされて、今後とも頑張って下さい。今後の活躍をお祈りいたします。応援しています。」


加藤大治郎選手のコメント
「二輪の世界で初めての顕彰ということで、大変嬉しく思います。この顕彰が、多くの人に二輪やレースの世界を知ってもらえるきっかけとなることを願っていますし、僕が頑張ることでそれに貢献できることを嬉しく思います。これからも頑張りますので、応援宜しくお願いいたします。」


店長としてはとっても嬉しいです。

と、言っていたのですが、まことに残念なことが起こってしまいました。
2003年4月6日、鈴鹿サーキットで開催されたWGPでMotoGPクラス決勝戦中の事故で加藤大治郎選手は帰らぬ人となりました。合掌。

※状況や経過、また「加藤大治郎選手事故調査委員会の報告」などは加藤大治郎のサイト
「Daijiro.net」でご覧ください。




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