「歴史教科書」と映画「セイヴィア」 | |||
まず、5月5日朝日新聞に掲載された「私の視点」のなかからストックホルム大学アジア図書館司書・倉増信子さんの「歴史教科書・反省が生む日本人の誇り」と題したコラムを紹介します。
サイパン島玉砕 *ぎょくさい【玉砕・玉摧】 (「北斉書‐元景安伝」の「大丈夫寧可二玉砕一、何能瓦全」による)玉のように美しく砕け散ること。名誉、忠節などを守って潔く死ぬこと。(統合辞書MS・Bookshelf Basic小学館) 1995年製作東宝映画「ひめゆりの塔」の冒頭の状況説明において使われる「玉砕」という言葉は「大本営発表」などとともに戦後のテレビ・ラジオドラマや実録放送でよく耳にしたものです。戦後数年は遺族などへの配慮から放送などでは仕方ないとは思うのですが。現代のそれも映画で使用されるとは...。 映画「ひめゆりの塔」は、大切なひとつひとつの青春のときが無駄に浪費され、大切な命もまったく無駄に失われてゆく。といった大事なテーマがあるはずの映画が冒頭でこのように戦争で死ぬこと(犠牲になること)を曖昧にしてしまう美辞麗句を使っちゃって、どうなっちゃうんだろうと思っていると、案の定という映画になってしまうわけです。 これは「ひめゆりの塔」だけでなく他の日本の戦争映画の多くがそのようなので、これは映画を作る人たち(制作者を含めたスタッフあるいは全ての映画人)の戦争感は、とくに現実に起こった(日本が起こした)戦争とそれから派生している今の状況などが理解できていないのではないか、と思ってしまいます。 戦争に限らず国のやることやいうことはあまりあてにはならないというのは、今でも国を相手どった訴訟が多く有るのでわかります。それを小説家や映画人が面白おかしく、あるいは怒りを込めて世に問うという作品が多くあります。 しかし日本は島国のためなのでしょうか倉増さんのコラムにある「海外の同胞がどんな思いでこうしたニュースに接しているか想像したことがあるだろうか。」といわれてしまうことになるのですが日本は想像力が育ちにくい国ですし、なによりお役所というところが想像力を忌み嫌うところのような印象があるくらいですから残念なことです。想像できないんだと思います。 歴史教科書のことだけでなく日本の戦争史観の稚拙さは、隣国と地続きで接していない島国ですから歴史上幾度か危機はあっても実際に侵略された経験がないということもあるでしょう。 今こうしていても、世界各地で戦争は有り、戦争があれば虐殺、略奪、暴行ということが行われているでしょう。 「セイヴィア」という映画は1998年にオリバー・ストーンがユーゴの監督ピーター・アントニエビッチを起用して製作したボスニア紛争を舞台にしたドラマです。 デニス・クエイドが扮するアメリカ軍将校がテロで家族を失い、過去をすてるため外人部隊に入る。そしてボスニア紛争に従軍して非人間的な戦いを見るうちに、徐々に自分の人間性を取り戻してゆく。 この映画ではボスニア紛争の背景などは描かれておらず、日本にいる私達はNEWSなどでも、セルビア側とクロアチア側のそれぞれの言い分や情報がまったく食い違っていてどうなっているのか判らない状態ですが、互いに憎みあい、憎しみを持って殺す恐ろしい光景が描かれています。 戦争の恐ろしいところは、通常ならば良いお父さんや良いお兄さんと呼ばれたであろう人々が残虐に人を殺したり、非道な行いをしたり、そしてそれが日常的に繰り返されるため非道とも思わなくなってしまうところでしょう。 鬼のような敵兵も戦争さえなければ人のいいパン屋のおやじで終わっていたかもしれないのです。わたしも誰もかも戦争に行けば非道な行為を否応なく行ってしまうのでしょう。 大虐殺でない「虐殺」ならばいたるところで行われたであろうことは容易に想像できることです。そんな恐ろしいことを子供に教えなくてどうするのでしょう。と言いたいのですが想像力のない役所の人たちではしょうがないのでしょう。もっと良い映画をたくさん見てほしいものです。 島国の日本にいる人々は、それでも気になると見えて「外国から見た日本、外国人から見た日本人といった内容の本」はよく売れているそうです。 そこから想像力を働かせて新しいスタートをすれば今の日本ももっと変わっていると思いますが変わらないところをみると、ナァんだ、読んだだけで安心しちゃったので想像力は働かないのでした。 クリエーターを気取っている映画人の皆さん。想像力をもっと働かせて良い映画を作って下さい。今の日本映画、つまらないッス。 教育については教科書も問題だけども教えかたも問題あるかも、わたしなど小中学校の教科書に何書いてあったかまったくおぼえてないです。(私だけか?、ヤッパリ。) |
「件名」は具体的に |
ビデオもくじへ |
世間話にもどる |
アップルTOPへ |