ビールの友014
銭湯の熱き戦闘
1996.09.26
アパート住まいでお風呂がない。近所の銭湯に通っている。近所には銭湯が2軒あったが、2年ほど前に1軒は店じまいをしてしまった。うちのあたりでは、バブルの時期に次々と古いアパートが取り壊され、ワンルームマンションに建て変わった。そんなわけで風呂のないアパートというのが近所で激減してしまった。ところがバブルがはじけて、ワンルームマンションには空き部屋があちこちにある。バカな話だ。
残った風呂屋に来る客は、以前より確実に多くなった。風呂無しアパートはへったが、風呂屋が2軒から1軒になったので客が増えることになったらしい。それ以前には見かけなかった人も、来るようになった。
以前から通っている人に、もう70近いのではないかと思えるじいさんがいて、これがなかなかの人なのだ。身長は160くらいと小柄だが、全身に筋張った筋肉がまだついている。脂肪がそげてしまった分、迫力のある体をしている。かくしゃくとしているし、何より目に力がある。いかにも「若い頃はそのスジでならしたもんだぜ」といった風情なのだ。背中には立派な彫り物もある。弁天様かなにか知らないが、そんなような彫り物である。ほとんど背中いっぱいの大きさだ。
そのスジのかたがたも人間である。ちゃんと風呂には入る。アパート住まいだと当然銭湯にやってくる。しかし、同じ銭湯に来るのが同じ組の人とは限らない。そんなときにはお互いに無視するのが習わしのようだ。鉢合わせして銭湯でモメたところは見たことがない。
そのスジのかたがたにはいろいろと制約とゆーか、キマリがある。
銭湯におけるそのスジの方の規則というのはくりからもんもんの大きさである。ちょっと言葉が古いか。入れ墨のことである。どうやらこれが大きい方がエバってもいいことになっているようだ。混んでいて、そのスジの方々が隣同士になったときなんか、刺青の小さい方がイスごとちょっとよけたりする。なかなかほほえましい。
ある時、180くらいある、一目でスジものとしれるでかい奴が入ってきた。左腕に、ハガキより一回り小さいくらいの花札の彫り物があった。肩で風切って入ってきたお兄いさんだったが、あいにく先に例のじいさんが入っていた。お兄いさんは、じいさんの弁天様を見るなり、恥ずかしそうに左腕の彫り物をタオルで隠し、こそこそと隅の方にいってしまった。何しろ背中いっぱいの弁天様だ。ハガキの花札とは勝負にならない。この間、じいさんの方は完全無視である。黙々と体を洗っている。よゆーよゆーという感じである。
まもなくじいさんは体を拭き、最後にタオルで自分の体をひと叩き。パーン!といい音をさせてあがっていった(この、タオルで体を叩くしぐさがイナセなのだ。キマッてる!)。
こうなると花札の天下である。湯船からあがるとホッとして体を洗い始めた。しかし、彼の受難は終わったわけではない。
花札が体を洗い始めてしばらくして入ってきたのが、やはり180センチのタッパを持つ兄ちゃんである。こちらの背中にも刺青がある。背中いっぱいというわけではないが、こちらもでかい。下り龍がとぐろを巻き、回りには火炎が散っていて、なかなか立派なものである。
この兄ちゃん、他にも空いているところはあるのに、まっすぐ花札の隣に座った。別に花札に因縁を付けるつもりではない。実は洗い場に入って右奥が兄ちゃんの定位置なのである。そこにたまたま花札が座っていたので、龍としては定位置の一番近くに座っただけなのだ。しかし、そんな事情は知らないから、花札の方は明らかに動揺している。ほほほほ、ほかにも空いてるところがあるのに、なななななんでオレの隣にくるんだよ!
龍はそんなことには無頓着である。黙々とお湯をかぶっている。花札はその様子を見て、どうやら因縁を付けるつもりはないらしいとホッとしたらしく、イスごと体を龍から遠ざけて自分も続きをやり始めた。だが、彼の幸せは長くは続かない。
なんで僕が龍の定位置を知っているかというと、この兄ちゃんはあたりかまわず泡を飛ばしまくりながら体を洗うという悪癖を持っているからである。僕は一度隣り合って以来、決して近くに座らないように気をつけている。
龍は湯船が嫌いらしく、頭から何度かお湯をかぶると、すぐに体を洗い出した。当然盛大に回りに泡をはねとばしている。隣り合ったときには迷惑なヤローだと思ったが、この時ばかりは楽しかった! 花札は龍の飛ばす泡をモロにかぶっている。すんごくイヤそうだ。だが、相手は龍、自分は花札である。文句を言うわけにはいかない。泡をかぶるたびに龍の方を横目でちらっと見るが、すぐに視線を落として何も言わない。泡が飛ぶ。ちらっと見る。すぐに視線を落とす。また泡が飛ぶ。まだちらっと見る。視線を落とす。この繰り返しだ。無言の戦闘は、花札が体を洗うのをあきらめ、すばやくお湯を2杯かぶって、そそくさと出ていくまで続いた。
湯船の中で見物していた僕は、おかしくて今にも笑い出しそうになった。僕が龍について知っていることは定位置だけではない。実は彼、ヤクザではなくロッカーである。背中の龍は本物ではなく、インスタントタトゥーなのだ、ヘイヘイベイベー。しばらく前には下り龍ではなく登り龍で、しかも龍が剥がれてしまって回りの火炎だけという情けない姿だったのだが、花札はそのことを知らない。
花札の彼は風呂屋が1軒になってから来るようになった、新参者なのだ。