体験記より
 1月21日 22時すぎ

 全員が帰着した時点で、大阪市福島区の支社の事務所でミーティングが開かれました。
 神戸市へ、僕たちがボランティアとして働ける場所を探しに行った陣頭指揮者の社員・Mさんから、今後の予定が話されました。

 当初コンタクトを取っていた神戸市からは、待機を言い渡された様でした。その為同時に日本赤十字社にも当たってみたところ、話が進展して明日から早速、調査の役目を行う事になったと告げられました。
 その為、明日は早朝の5時半起床、6時半に出発し、8時までに神戸市中央区下山手通の日本赤十字社兵庫県支部に到着する予定である事も言われました。

 今まで睡眠時間が極端に短かったみんなにとって、これはきついスケジュールであるはずでした。
 しかしこの後数日続いた少ない睡眠時間の日々にも関わらずみんながやって来れたのは、神戸の力になりたいというボランティアとしての志気の高さを、みんなが持っていたからでしょう。
 それから、ここの存在も大きかったのではないでしょうか?
 事務所のすぐ近くには、銭湯があります。ここは東京で僕が通っている銭湯よりも遥かに多彩な施設があり、驚きです。
 看板も、「これだけあるの。注目してっっ!」と言わんばかりにいくつも光っています。
 憶えている物を挙げてみると、「ラドンサウナ人間乾燥器、etc・・・」。
 「人間乾燥器」なる物はなんなんだ?とは、僕が話した人達の大いなる疑問でした(^^;
 すぐにこの銭湯の番台のおばちゃんに、みんなが顔を覚えられ(ていたらしい)、東京に帰るまで、体の疲れを取る憩いの場(?)として毎夜通い続ける事になります。

 大阪の事務所にはMacが1台144のモデムと共に設置されていました。
 ワープロとして使っているだけと大阪支社の方が話されたので、それなら家から通信環境一式を持ってきて使いたかったなと思いましたが、もしそれが実現されていれば、重要な情報源として活用出来た痛恨の後悔をする事になったのは、帰省後の1月31日夕方の事でした・・・

 この日は、全員が東京から持ってきた布団を事務所の床に敷いて(僕とSRXの相棒はソファーの上でした(^^;)、0時過ぎに就寝しました。
 神戸市への救援活動志願が保留にされた事は、神戸市の機能がうまく動いていなかったのと、ボランティアの活用の仕方に不慣れだったという事になるでしょう。

 日本赤十字社が受け入れてくれたのは、恐らくこれから話すKさんの判断に負うところが大きかったと思われます。
 一時は神戸市内で寝泊まりする話しもありましたが、Mさんの、毎日大阪に帰った方がみんなの精神衛生上良いとの判断で、毎朝毎夕「大阪-神戸」間を通勤?する事になりました。片道50Kmの大渋滞の中を毎日ですから、僕にとってはきつい事でした。
 しかし、毎日入る風呂&サウナは、やはり気持ちの良いものでした。
 大阪支社のパソコン機材を通信端末として活かせなかった事は、いまだに残念でなりません。
 この頃からNifty-Serveでは様々な情報が飛び交い始めていました。この情報を日本赤十字社に対して提供出来れば、というのはこの時期への痛恨の後悔です。
体験記より
 1月22日 早朝 雨

 起こされる。眠い。頭が機能停止状態。しばらく、ぬぼ〜としている。。。
 また、起きろ〜!と無情な叫び。あぁ、眠りたい・・・
 外は雨。こんな時に!

 もそもそと服を着て、みんなとバイクが置いてあるガレージへ向かう。
 これから(確か)6名でこれから神戸市へ向かい、残りは大阪支社のヘルプとして居残る事になっています。
 その際、2人1組としてペアを組む事になり、Mさんはそれをスキューバでの用語で「バディ」と呼びました。
 「バディ」を組んでペアがお互いの行動を報告しあう事によって、Mさんが常時全員の行動を把握出来る様にしようという事と、1人で放っておかれる事の危険を避ける為と理解しました。

 この日は神戸までどの道を使って走ったのか、残念ながらもう記憶にはありません。
 ただ、被害が目に見えて酷い辺りから、「白●イ隊員仕様のジェットヘル」を被ってフロントフェアリングには「●ーボ君シール」を貼ったMさんのZZ-R1100を先頭に、交通法規を無視した走りを行って、日本赤十字社(以下:日赤)まで向かったのは確かでしょう(^.^;

 まさに神戸市の交通事情は「なんでもありあり神戸」でした。
 どんどんすり抜けを行い、飛ばし、地元原チャリをけ散らす走りもしました。
 みんなにとってはこれが普通でも、僕にとっては通常行わない走りです。腕は何とか追いつけますが、走り終えた時に思い出す度、ぞ〜っとしました。

 この為に後にこの「大阪−神戸」通勤が僕にとって精神的に参ってしまう要素の1つとなっていきます。
 大阪-神戸間の通勤は、毎回がハードでした。
 交通が麻痺していて更に大渋滞の中を、グループが離れない様に注意しながらバイクを「飛ばして」通うのです。
 とにかく日常の交通法規を無視していました。そうでもしないと、目的の救援活動が出来ないのです。しかしもちろん、歩行者への配慮は十分に行いました
 異論のある方は、是非とも
当時の神戸を肌で感じて欲しいとしか言えません。

 しかも僕以外の人達は腕が上手い人達ばかりで、追いつくのに毎日必至でした。
 今でも、この時の走りで少しは、いざという時の街中の飛ばしは鍛えられたと思っています(^^;
体験記より

 日赤に到着した僕たちを待っていた仕事は、リストアップされた神戸市全域の避難所を1人で1件1件訪問して、避難者数・必要物資・その他を聞き出して、渡された用紙に自分で整理し、可能ならば避難者名簿を取得し、日赤のボランティアをしてくれそうな現地の人材を捜してくるという、ボランティアの役目とは名ばかりの、とても重要で責任の重いものでした。

 この仕事を与えた日赤の担当は2つありました。
 1つが、緊急物資・ボランティア担当のKさん
 各避難所の状態を知る事で素早い援助をする為と、避難所から「現地の地理に詳しいボランティア」を発掘する事で日赤の活動をやりやすくする為と理解しました。
 Kさんは以前、国際連合国際公務員として働いていて、世界各地で活動していたと言います。この震災で神戸に入る前は、紛争で深刻な事態に陥っているボスニアに居たとの事でした。
 2つが、安否係のIさんとNさん
 海外から多くの安否の問い合わせがあり、それに答える為に避難所の名簿が(喉から手が出るほど)欲しいとの事でした。

 Kさんが各人に担当区を割り当てていきます。何かしたいと想っていた僕は、Kさんにガレ場でも走れるバイクに乗っているとアピールした所、
 「・・・長田区をお願いします・・・」
と言われました。絶句です。
 一番被害が大きいとも言われている所。瞬時に責任の重みが胸の中で感じられます。
 望むところ・・・でも、この僕にやれるのか?
 人と対話するのは、はっきり言って、苦手でした。
 仕事で毎日人と接しているとはいえ、それは数分の出会いです。
 しかし今回は、自分が否応なく頼られる存在となって避難所の方の話しを聞かなければならない!
 まさにそれは、今までの自分の内面の問題と正面きって対決する事でした。

 この事が、後に途中で東京へ帰る瀬戸際までいく事となった、精神的な疲労の一番の原因となるのでした。
 日赤の緊急物資・ボランティア担当のKさんは、さすが国際的に活動しているだけあって、実践的な思考の持ち主でした。しかし、その実践的なやり方は同時に、僕達の行動を限界まで生かそうとしていました。
 しかし、国際的にはそこまでやる必要があるのだと今でも思います。日本の思考が「平和ボケ」なのだと思えるのです。
体験記より

 資料を渡された一同は一度、日赤の方が宿泊施設として使っている建物の1階のフロアに移動しました。
 そこで各自が行動しやすい様に資料を作成して、受け持ちの区へと出発していきます。
 雨の中を、全員が日赤の元で動いている事を証明する為の、ワッペンを付けて・・・
 僕は渡されたコピーの地図に、避難所としてリストアップされている学校にチェックを入れていきました。すると、「漏れていると思われる」学校がいくつかありましたので、次点として候補に入れておきました。
 長田区の何処の避難所から手を付けようか、ちょっと悩みましたが、初めは近い所から始めようと考えて、「南東区域」から始める事にしました。
 すると、次点の一つとして挙がっていた朝鮮人学校が、初めて訪れる避難所となりました。
 不安と緊張と重い責任感を胸に秘めて、バイクを校庭へと入れます。
 炊き出しでにぎやかな人達の誰かに、「日本赤十字のボランティアの者ですが、ちょっとお聞きしたい事があって来ました」と話しかけ、ここでの代表者の方の方へ通されました。
 お話をしてくれた代表者の方は、中年の男性。割とがっしりとした体格で、真剣に話してくれました。
 この避難所は、在日韓国人等の「同胞」を受け入れている、日本人は居ない、近所の「同胞」のボランティアが来ていて人手は不足していない・・等を話され、どうやらこの避難所は自活出来ている様でした。
 僕が手に取っていた避難所リストに目を付けると、「見せてくれないか」と言われました。素直に見せたところ、「やっぱりな」という言葉が・・・
 この避難所が、公式のリストに載っていない事への予想と怒りだったと思います。ここにも、在日韓国人を取り巻く問題が見え隠れするのか・・・
 その代表者の方は僕に名刺を渡してくれました。
 お礼を言い、一旦は離れて近くの公園で調査表の作成をしていました。しかし「避難所リスト」を置き忘れた事に気が付いて取りに戻り、再度退室する時、若い女性が真顔で僕に何かを「向こうの言葉」で言い放っていました。
 恐らく、罵声だったのではないかと予想しました。以前聞いた事があります。日本人には言葉の内容は分からないのだから、本人がいる前であからさまに罵って、仲間内で笑う事があるって。
 でも、そうなりそうな気持ちが分かりそうな気がしました。ここ日本では彼らは少数民族で、しかも戦前・戦中の植民地政策の為に卑下されてきた名残を未だに引きずっています。下手に出てくる日本人に言い放ちたくなってもおかしくはない・・・
 ここの人たちはしかし、僕たち日本人には無いパワーがあるなぁと感じさせられました。生命力が感じられるとも言えます。
 校庭の中辺りで、小雨の中を2人の子供がぽつん遊んでいる所を、すぐ側でカメラで撮影している人がいました。もしかしたらマスコミかもしれません。思わず主観で思いました。

マスコミがまた”やらせ”で写真を撮っているのか!!・・・

 雨が止んでは降ってくる、そんな天気でした。
初めて入った避難所が、在日韓国人が通う学校でした。いろいろな問題を感じさせられましたが、しかし、彼らの方がパワフルだったのは、今でも印象に残っています。
 マスコミの取材の様子も、僕には次第に嫌悪感を抱き始めていました。
 現場にそぐわない「やらせ」が多い取材方法をそのまま持ち込んでいるような気がして、嫌だったのです。