4〜避難所の極限状態
体験記より
 1月22日 昼以降〜 雨が降ったり止んだり

 朝鮮人学校での初めての調査を終わらせた僕は、真向かいの敷地に立っている真野小学校へと向かいました。
 この小学校の周りは木造家屋が密集して立っており、道幅も狭いために倒壊した家屋が道を塞いでいる所がいくつもあります。
 校舎の入口には、「部落解放運動 救援物資」と書いた幕を付けた2tトラックが3台停まっていて、多くの人たちが物資を手分けして校舎の中に運んでいました。
 何故、「部落解放運動」という名前が出てくるのか、僕には具体的に分かりませんが、もしかすると、この地区は部落差別に関連がある所なのかも知れないと思いました。
 入口に入って人に声をかけ、職員室まで案内されましたが、その途中で目にする光景は、やはり事態の重大さを実感させられました。物資が廊下に積まれて、人々が行き来する・・・
 職員室に着くと、老人達を診察している白衣を着た方に通されました。
 しかしその方は、「自分の上司に赤十字の人間がいるから、後でその方を通して知らせる」と一方的に僕に言い放ち、対話を拒否して診察を再開しました。
 恐らく、事態の深刻さの為に、また、日数が経ってから僕が派遣されてきた事への怒りもあったのかも知れません。
 仕方がなく、気落ちして引き返しました。
 しかし、多少でも周囲の状況収集をしようと思って少し見回ってみました。

 無事の様に見える家の前でポリタンの水が配給されていて、数人が並んでいる光景がありました。
 通りがかりのおばさんに声を掛けてみたら、近所にはテントを持っていない人が多いと心配をしていました。避難所に避難しない・出来ない人達の心配なのだろうと当時は思いましたが、今思うと、震災窃盗を警戒して、家から離れられない人達への心配だったのだろうと思います。
 ある米屋の半開きのシャッターの中に、5Kg米が約10個あるのも見かけました。
 雨はなかなか止みません。
 次の調査目標地はどこにしようかちょっと悩みましたが、R43を北に横切った、隣接しているので移動時間が少ない2つの学校に決めました。
 苅藻中学校
 この周辺も家屋の全壊・半壊が酷い所です。
 校舎の裏のブロック塀がほとんど(全て?)倒壊していました。
 1978年の宮城県沖地震では、この現象がクローズ・アップされていましたが、いまだに何故被害が、当時僕が住んでいた震源地に一番近い南三陸よりも遠い仙台で大きかったのか、今でも不思議に思っています。
 こちらの中学校の教頭先生にお話を聞く事が出来ました。
 対話をした避難所の代表者の方々に共通の事ですが、どなたもとても真剣でした。生半可な態度で接する事はとても出来ませんし、自分がしっかりしなくちゃ!と自発的な責任感を感じさせられました。
 この責任感は、組織の中での仕事では今まで感じた事が無いものでした。
 更には、やりがいをも感じられました。他の方々は日常の仕事でも同じ感じ方をされて、僕はただ単に組織に溶け込めないだけの小さな人間だと思いますが、この感じ方は僕のこれからに大きな影響を及ぼすかも知れません。

 しかし、対人関係がなかなか苦手な自分にとっては、いろんな要素で大きなストレスになってもいました。
 この方は慎重に物事を考える方に思え、とても丁寧に温和にお話をして下さいました。
 避難民数は約700人位、暖房は無く、昨日仮設トイレがいくつか入って来た、etc。
 そして、この方は避難民の心の荒廃を心配していました。
 プライバシーが無い避難生活。
 その中で心が荒れていく事をとても心配していました。
 その為にトラブルの元となりそうな、音を出すラジオの使用を禁止していました。
 教頭先生に、丁重にお礼と励ましの言葉をかけてその場を後にし、社員で陣頭指揮者のMさんの携帯電話に、定期連絡として校舎の裏の公衆電話から電話をかけました。
 Mさんが回った区の避難所も避難民数が凄いらしく、千人を越える所もあったとの事でしたが、さすがに交渉慣れしているのか、スムーズにいっている様でした。

 目の前の線路には電車が全然走らず、辺りは静かです・・・
 苅藻中学校の教頭先生が既に心の問題を配慮していた事に、僕は驚きと同時に安堵感を抱きました。
 後に「心的外傷後ストレス障害(PTSD)」として注目される事とは別な、集団生活上の問題ですが、始めの一歩の考え方としてとても大切な感覚だと思います。