第5章 不安定な心からの生還を探る 〜トラウマの癒しを求めて〜



 ここまでで、心の不安定な人達とトラウマ(心的外傷)の関係を、臨床心理学・精神分析学の視点から、私なりに述べてきました。

 境界例(ボーダーライン)は心が不安定な状態ですが、社会全体がこのような傾向になってきているという話があります。

 身の回りの人々の中でこのような傾向が見られる人への理解や、そして、自分でその傾向があると自覚される方々の自己理解にとって、境界性パーソナリティー障害(BPD)という客観的な視点は、心の不安定さを否定的に見る事なく知的に前向きに対処するための、第一歩になると思います。



 しかし、自ら心の不安定さから回復したいと願っている人々にとっては、安定への道はイバラのように厳しいものです。
 その状態は、子どもの時からの成長過程の中で年月をかけて養われてきたものですから、残念ながら、長きに渡る事は覚悟しなければならないと思われます.....。

 「精神病は対人関係の病である」と米国の精神科医ハリー・スタック・サリヴァンが言いましたが、子ども時代のトラウマも、養育者との関係という対人関係から受けた傷です。
 この傷を癒すのは、やはり同じく人との関わりなのかもしれません。
 人は1人では生きてはいけません。

 人との関係の中で、「深く激しい心の傷」を癒す取り組みが必要なのでしょう。
 その事が、これまでやむを得ず失敗してきた子どもの時の成長課題に改めて向き合う事を可能にさせ、成長し直す事が新ためて可能になり、不安定な状態が次第に安定していくのではないかと思われます。
 その方法が、人によっては重傷で精神療法家の助けを借りたり、友人達との深く暖かい関わりで十分であったり、養育者や加害者との和解だったりと、それぞれが受けた心の傷の程度周りとの関係の違いによって様々なのではないかと思います。

 トラウマを受けた時はまだ小さく無力な子どもでしたが、今は自分の意志で自由に動ける大人です。その大人の自分が、今度は自分で自分を育て直す「育ちなおし」という姿勢を抱く事が必要ではないかとも思われています。

 これから、この取り組みを援助する機関の種類のいくつかを紹介します。


 まず初めが、臨床心理士や精神科医による各種の精神療法とカウンセリングです。
 基本的には1回1時間の時間枠でカウンセラーや医師と治療契約を結び、2人で対面をして話しをします。
 その進め方には様々な方法があるのでここでは割愛しますが、時には家族も含めた面接や、入院による集中治療も行われます。

 薬物療法からのアプローチにより、抗不安薬などの各種の薬物を服用する事で心の苦痛を和らげながら進める事もあります。



 この精神療法の中の一つで、私が有効だと感じているものに認知療法があります。
 この認知療法では、心の中に湧いてくる自己否定的な感情自動思考と呼びます。
 その自動思考は、「全てか無か」に代表されるような極端な思考で、認知を歪ませて大きな錯覚を引き起こしていると考えます。
 その認知の歪みからくる錯覚が、抑うつ感や悲観的な感情を引き起こし、その感情がまるで真実のように感じられていると考えます。その悪循環が「うつ状態」だとします。

 認知療法の基本的な考え方は、この自動思考の破滅的な在り方を理解し、もっと合理的な思考からその自動思考に対抗して反発する事です。
 そして現実的な見方を感じられるようになる事で抑うつ的な感情を、人間本来が持っているポジティブな感情に変化させようというものです。

 この認知療法の考え方の特徴は、感情は認知の結果引き起こされるもので、認知の仕方を変えれば感情も変わるとしています。

 しかしこの療法は、自分をある程度客観化して眺める事が出来る人に向いているとも言われています。
 更に元々鬱病者への取り組みの過程で生まれた精神療法ですので、その他の精神疾患の方々への応用は簡単ではない様ですので、どの様な状態の人にもすぐに効果があるとは言えないようです。


 当事者同士が集まり、お互いを助け合いながら心を癒していこうという目的で集まる自助グループと言われる集団ものもあります。



 そのひとつに、AC(Adult Children)という概念で自分の状態を自覚し、同じ苦しみを持つ仲間達と共に辛い状態に立ち向かっていこうとする目的で集まる自助グループ集団があります。

 AC(Adult Children)とは、

 Adult Childre of Alcoholics(ACOA:アルコール依存症家族で育った人)
 と
 Adult Childre of Dysfunctional Family(ACOD:*機能不全家族で育った人)
 
の人々の事を主に言い、元々アルコール依存の治療から拡大・発展したものです。


  *「機能不全家族」とは、子どもが育っていくためには、十分に愛され、受けとめられ、
 リラックスできる場が必要との考えから、このような在り方(機能)が果たせない
 状態(機能不全状態)として恒常化してしまった家族を言います。
そして、次のような暗黙のルールが家族内を支配していると見ています。

 〈略すな〉 問題について話し合うのはよくない
   〈感じるな〉感情を率直に表わすのはよくない
   〈信頼するな〉人を信じてもろくなことはない 


 このAC(Adult Childre)という概念は、境界例(ボーダーライン)と密接に関わる概念と思われます。

 参考として、ACの特徴とされるものを挙げておきます。
1・ACは何が正常かを推測する(これで良いとの確信が持てない)
2・ACは物事を最初から最後までやり遂げることが難かしい
3・ACは本当を言った方が楽なときでも嘘をつく
4・ACは情け容赦なく自分に批判を下す
5・ACは楽しむことがなかなかできない
6・ACは自分自身のことを大変深刻に考える
7・ACは他人と親密な関孫を持つことが大変難しい
8・ACは自分にコントロールできないと思われる変化に過剰反応する
9・ACは他人からの肯定や受け入れを常に求めている
10・ACは他人は自分とは違うといつも考えている
11・ACは貴任をとりすぎる,そうでないときにはまったく無責任になる
12・ACは過剰に忠実である。無価値なものについてであってもこだわってしまう
13・ACは衝動的である。他の行動が可能であると考えずに一つの行動にこだわり
  続ける。そのため,混乱,コントロールの喪失,自己嫌悪を招きやすい



 ゲシュタルト療法といわれる考え方を取り入れて、他人と実際に体を触れ合ってマッサージ的な事をしあったり、心から湧き出てくるくる感情を素直に感じてグループの人々の中で吐き出すような事をやりながら、他人との心と体の触れあいの中で、傷ついた心のトラウマを体で表現・放出させる試みをしているグループもあります。



 これらのグループの一つの目的は、当事者同士が関わる事で、お互いに傷を癒していこうという、他者との交流があります。そして、それが人の温かさや身近にいる安堵感を肌で実感させてくれる機会を多くすると思われます。
 しかし、全てのグループがそうだとは一概には言えないようです。

「自己啓発セミナー」と呼ばれる種類のセミナーも、一見このような取り組みに適しているように見えますが、参加者のこころを有無を言わさず積極的に激しく揺さぶり、結果として参加者が勧誘活動をするように仕向けられる点で、十分に警戒する必要があると思われます。



 しかし、注意しなければならない事があります。これらの取り組みの中で、あらためてトラウマを深く負ってしまい、余計に傷つく可能性も大いにあるという事です。
 しかし「深く激しい心の傷」を癒す試みは、そのようなリスクを覚悟で人生を生きるという事なのかもしれません。



 芸術は、人間の苦悩から生み出されたとも言われます。

 苦悩と戦いながら、その営みを作品につぎ込んで昇華させているので、見る人の心を揺さぶるのだというのでしょう。

 「深く激しい心の傷」を負っているという事は、決して否定的な面だけではないのかもしれません。
 それと正面から向き合う中から、人の心の輝きが生まれるのかもしれません。

 「いのちは闇の中のまたたく光だ」というセリフが、「風の谷のナウシカ」というマンガのラストの主人公・ナウシカのセリフにあります。限りある命がどんな境遇に遭おうとも、精一杯生きようとするのがいのちなのかもしれません。
 人間も、動物も、虫も、植物も、地球上に生きる いのち のすべてが・・・。




『imago 特集:サイコ・セラピー入門』1996年3月号 Vol.7-4 青土社
絶版
『いやな気分よさようなら』 
     デビッド.D.バーンズ/著 野村総一郎・他/訳  星和書店
ISBN4-7911-0206-1
『認知療法 精神療法の新しい発展』
       アーロン.T.ベック/著 大野裕/訳  岩崎学術出版社
ISBN4-7533-9000-4
『認知療法入門』 アーサー.フリーマン/著 遊佐安一郎/監訳 星和書店
ISBN4-7911-0184-7
『心理療法とは何か』
     アデレイド.ブライ/著 空井健・市間洋子/訳  新曜社
ISBN:無し
『アダルトチルドレンと共依存』 緒方明/著  誠信書房
ISBN4-414-42911-0
『ワークショップ 人と人との「あいだ」』 松井洋子/著 太郎次郎社
ISBN4-88482-116-5
『セルフ・コントロール 交流分析の実際』
              池見酉次郎・杉田峰康/著  創元社
ISBN4-422-00035-7
『セルフヘルプ・グループ』
        A.H.カッツ/著 久保紘章/監訳  岩崎学術出版社
ISBN4-7533-9706-8
『アダルト・チルドレントと癒し』 西尾和美/著  学陽書房
ISBN4-313-86003-7
『風の谷のナウシカ 第7巻』 宮崎駿/著  徳間書店 ISBN4-19-770025-3
分裂病の少女 デボラの世界』
      ハナ.グリーン/著 佐伯わか子・笠原嘉/訳  みすず書房
ISBN4-622-02343-1
『積極的心理療法』フロム.ライヒマン(Frieda.Fromm-Reichmann)/著
                    阪本健二/訳  誠信書房
ISBN4-414-40212-3
『人間関係の病理学』
         フロム-ライヒマン/著 早坂泰次郎/訳  誠信書房
ISBN4-414-40210-7
『imago 特集:脳内物質のドラマ』1993年1月号 Vol.4-1 青土社
絶版
『対象喪失』 小此木啓吾/著 中公新書   中央公論社 ISBN4-12-100557-0
『ヒューマン・マインド 愛と哀しみの精神分析』
                  小此木啓吾/著  金子書房
ISBN4-7608-3209-2
『1・5の時代』 小此木啓吾/著 ちくまライブラリー3  筑摩書房 ISBN4-480-05104-X
『モラトリアム人間の時代』 小此木啓吾/著  中央公論社 ISBN4120008304
『こころの原点 かわりゆく人と人の間で』 小此木啓吾/著  哲学書房
ISBN4-88679-051-8
『愛されるこころ 愛を疑うこころ 真実の幸福のある場所
                  小此木啓吾/著  青春出版社
ISBN4-413-03031-1
『ピーター・パン・シンドローム なぜ、彼らは大人になれないのか
            ダン.カイリー/著 小此木啓吾/訳  祥伝社
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『シンデレラ・コンプレックス』
         コレット.ダウリング/著 木村治美/訳  三笠書房
ISBN4-8379-5348-4
『喝采症候群 独断的パラノイア論』 木田恵子/著  彩古書房 ISBN4-915612-16-3

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